2011年1月10日月曜日

FANUC LIFE

2011年今宮戎神社、十日戎

・十日戎
豊臣時代の頃になりますと庶民のえびす様への信仰はより厚くなり、また豊臣秀頼は片桐且元に社殿造営の普請奉行を命じています。またこの頃より市街が発達し、大阪町人の活躍が始まり、江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。十日戎の行事もこの頃から賑わいをみせ、延宝三年(1675)の現存する最も古い大阪案内の図「葦分舟」にも十日戎の状景が描かれています。
 また文芸の分野においても江戸初期の俳人小西来山の句集で今宮のことが書かれており、中期の大田蜀山人の紀行文にも十日戎が記されています。また浄瑠璃「艶容女舞衣」では十日戎が重要な背景として設定されています。
 明治には、それまでの問丸が雑喉場の魚市場、材木商組合、麻苧商組合、蝋商組合、漆商組合、金物商組合等が講社を結成し、十日戎はより一層盛んになりました。
 このように時代とともに盛大になってゆく祭礼ですが、惜しくも昭和二十年の戦災で神社はことごとく焼失しました。しかしながら昭和三十一年には本殿が復興し、再び十日戎も活況を呈するようになり、現在では年の最初のお祭りとして十日戎の3日間に約百万人を超える参詣者があります。



・十日戎の笹
笹は、孟宗竹の枝で、いわゆる群がって生えている笹ではありません。竹は古代から、文学、美術、芸能、民具など日本人の生活とは密接な関係を保ってきました。中でも竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、冬も青々とした葉を付け、更に竹林の生命の無限性、旺盛な繁殖力など、そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じていました。こうした日本人の竹に対する感性が、色々な神事に笹が用いられることになり、竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。十日戎の笹も例外ではありません。常に青々とした葉をつけているところに、「いのち」を生み出し続け、「いのち」を常に甦らせている神秘性、その姿は、神道の信仰そのもので、神々のご神徳によって、日々「いのち」が甦り、生成発展している姿を象徴しています。


・昨年の感謝の気持ち、今年も己の意思をつらぬきとおし笑いたおす事の再確認。

気が引締まりました。

今年も一年間宜しくお願いいたします。

                                志

0 件のコメント:

コメントを投稿